「3割打者」の哲学
今朝のあるテレビでの3人の俳優たちのトークの番組、映画での出演のある場面でずっとみんなが笑ってくれていて、すごくうれしくって感動、その舞台を降りた時に、うっかり何かにつまずいてこけそうになったときに又みんなに笑ってもらって、、「でもこの時の”笑い”がずっと本物でしたね!」。 何にしても、笑いに包まれての人人の関係、そして子供たち、そんな瞬間に包まれた時、みんな幸せである。友人は定年後に落語に没頭、笑ってもらえる楽しさを語っていたが、学校での授業も、いや授業こそ、そんなひと時でなければならないのではないのか!「楽しい授業」のために教師はすべてをかける、それが先生にとってもどんなに楽しいことか?でも、それはほんの3割、すなわち1時間の授業の中で3割の部分でいい!イチロー、松井はそれで大打者である。あとの時間は難しい時間での悩める子どもたちがいていい。そんな場面を作るには教師は大忙しのうろうろ時間で何ができるのだろう、俳優たちは一言の場面でどれだけの時間を準備するのだろう?落語家でもわずか15分ほどの時間のためにどれだけの準備をするのだろう。いま子供たちに向って投げかけようとしている言葉に、もし、何の準備もないとしたら、いったい何がそこに生まれるのか?ぱっと子供たちが自分に向って笑顔を向ける、そんな一瞬のために自分は授業を引き受けているのだと思う、午前中にほんの1,2時間、それで精一杯、、若い先生にはもっとエネルギーがあったとしても、ただ、ただ忙しくなっていく学校、そけでは、いったい何を求めようとしているのか?国民からの、教育へ向う声、子供らの本当に楽しいひと時を願う声は皆無であり、ただ、踊る政治家への支持だけがあるだけである。
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