「学校」とは「授業」である
「教育改革論」あるいは「学校改革」を語ることばは様々だが、全ては「授業論」に尽きる。1日、5,6時間を、ほとんど教室で過ごし、机に向かう子供たちに、授業がつまらない、また耐えられないものであるとすれば、学力を付ける、どころではない、忍耐の局地の、刻々を過ごす為の1時間にしかならないだろう。落語漫才のことばのプロの前ですら15分が限度ではないのか!1時間の授業をどんな風に子どもと過ごすのか?即ち授業論が問はれる筈ではないか!しかし、まずは学校で、もちろん教育の政策の中で、授業論は不問にされる。いっぱいイッパイの授業の中で思いつきの授業しかやりようのない先生、つまらない授業に集中力をかく子どもに、叱るつけるだけの授業、静かにする手は、板書を写し取るのが一番?ものすごい宿題、それに○付けで多忙多忙の休み時間、授業の中にこそ子どもの笑顔が、理解し、納得し、自信を獲得出来た瞬間の子どもらとの先生との共鳴の瞬間生み出せることが一時でもあればそれが授業、、学校ではもうそれらを語る時間場所はない。あるのは教師の格付け評価。大阪では学力テストでのランクを上げるのに「学校論」はもちろん「授業」を語ることはない。知事のその場しのぎを語るべらべら論が一人、横行しているだけではないのか。
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